「俺はなんて、ついてないんだろうか…」
忘れ去られた溜池の底に沈む、真っ黒な泥から発せられたような響きだった。
「ついてない」
それはヒロシの口癖だった。
この世に生を受けてから、毎日欠かさず呟き続けている。
ヒロシが住むのは、佐々木のぞむ(♂)の後頭部にある、直径3mm程の小さなホクロだ。
そこから頼りなさげに生える1本の毛が、まさしくヒロシだった。
生まれた時からずっとそこに存在していたが、その存在は主人である佐々木にすら知られていないあまりに小さく意味を持たないものだった。
「膝の安田ですら認知されてるのにな…」
膝の安田は新入りだ。
2週間前、佐々木がアツアツの肉まんの中身を股間に落とした時、有り得ない体勢で転倒して出来た痣が安田である。
佐々木はしばしば全裸で食事をする。
それに関しては、ヒロシも佐々木の家族もドン引きしていた。
ヒロシは自分の境遇を恨んでいた。
ヒロシが住む佐々木の後頭部は絶壁だった。
その絶壁のちょうど真ん中あたりにヒロシは位置している。
「絶壁に生えてるなんて最悪だ…」
生まれた時から佐々木は絶壁だった。
佐々木はクラスメイトから密かに「垂直」というあだ名をつけられていたし、寝るときはほとんど上向きで眠るのだ。
夜になるたび、ヒロシは憂鬱だった。
枕と後頭部に挟まれて窮屈な思いをしなければならないし、朝には独特の寝癖がついてしまう。その寝癖は家族から「呪い」と恐れられ、全裸で食事をするよりもドン引きされていた。
ヒロシは頭頂部に生えている毛達が羨ましかった。頭頂部に生えていれば窮屈な思いもしなければ、呪いのような寝癖も付かない。視界には空が広がっており、さながらタワーマンションの最上階のように感じられたのだ。
ヒロシの夢は、いつか頭頂部に生えることだった。それだけがヒロシの望みだった。
ある朝ヒロシが目を覚ますと、わずかな違和感を感じた。ふと隣を見てみると、新しい毛が生えていたのだ。
その毛は他の毛とは全く異なっていた。
白く輝いていたのだ。
ヒロシは毛根が緊張するのを感じた。
「はじめまして、カオリと申します」
その毛は、聞いたことのない澄んだ声で話しかけてきた。
ヒロシは小さな声で「どうも」と返すのが精一杯だった。
「ここはどこですか?」
ヒロシは躊躇した。
この、生まれたばかりの美しい毛に真実を伝えるのが心苦しかった。
「佐々木の…後頭部です…絶壁のちょうど真ん中あたり…」
ヒロシは正直に話した。佐々木は直毛なのだ。
曲がったことは言うことができない。
すると、カオリは白くて滑らかな体を揺らしてこう答えた。
「まぁ!それは素敵ですね!」
ヒロシは面食らった。
絶壁が…素敵?一体どういうことなのか。
「い、一体どういうことですか…?」
「人と違うって素敵じゃないですか!」
カオリは他の毛とは違う、白い体を真っ直ぐ伸ばし凛として答えた。
「人と違うのは…素敵…」
ヒロシは毛根が熱くなるのを感じた。
体が少し揺れていた。
「佐々木さんって癖っ毛なんですか?」
「朝は寝癖が酷くて、家族には呪いって呼ばれてますよ。本当は直毛なんです」
「ふふ、そんな気がしました」
カオリは笑ってそう言った。
ヒロシはその顔に見惚れてしまった。
それ以降ヒロシから「ついてない」という言葉を聞くことは無かったという。
《おしまい》