おしりを出してる人の日記

巨尻の総合エンターテイナー。

ヘソで沸かしたコミュニケーション

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人と人とが出会うと交流が生まれる。

それは時に目を通し、耳を通し、はたまた時には皮膚を通し様々な手段を介し行われる。それを言葉で表すと《コミュニケーション》といった言葉になるわけだ。

 

コミュニケーションは率直に言うと難しい。

コミュニケーションには正解がない。

台本もカンペも存在しない。

ゲームのように選択形式でもなければ、多くの場合コンティニューはできない。

 

そんな中で、相手の反応や言葉から適切と思わしき言葉や態度を導き出さなければならない。

人によってはコミュニケーションは大きなプレッシャーを感じるだろう。

 

私もその一人だった。

 

私はもともと、内向的かつ極度の怖がりだ。かと思えば時折エキセントリックな行動をとることで不気味さを加速させている人間だ。

 

小学校に入りたての頃は一人でトイレに行けず、一緒に行ける相手も居ないことから先生に付き添ってもらっていた。また、後ろの席の女の子に話しかけたくても出来ず挙げ句の果てに私物に触り不気味に笑うのが精一杯だった。彼女は引いていた

 

そんな私だが、最近は比較的コミュニケーションへのプレッシャーを感じなくなった。はじめて会う人との交流や、体験を楽しめるようになったのだ。

 

それは一体なぜなのか?

 

要因はいくつかありそうだが、その一つに「単純に数をこなしたから」というのは確実にありそうだ。

 

昔は父の転勤で、コロコロ環境が変わる生活だった。そうなると、また1から関係を築いていく必要があり、新しく人と出会う機会が多かった。

 

また、大人になってからは仕事の関係でコミュニケーションが必須だった。人に会う数がとても多い職場であり、最初はとても緊張していたがしばらくすると幾分かマシになった。

 

仕事で緊張感のあるコミュニケーションを体験すると、プライベートでのコミュニケーションは肩の力を抜いてできる楽しいものになった。

 

環境によっては苦手なままになっていたかもしれないコミュニケーションであるが、このように半ば強制的に接してきた事により克服できたのはラッキーなように思う。

 

最近では、自分の言葉で発言して意見を述べるという事が出来るようになってきた。

これは人と自分との境界線を理解したことで、自分の意見を述べることは悪いことではないと思えるようになったからだ。たとえ、意見の相違があったとしても「人は人、自分は自分」と割り切れるようになった。そして、相手の意見も受け止めることができるようになってきた。

 

発言の表現にはとても気を使っている。

誰かを傷つけることが目的の発言になってはいけないと思うからだ。それを考えた上で問題提起をしているつもりだが、最近困ったことが起きはじめた。

 

私にすごく気を使う人が増えたのだ。

 

これはフォロワー数が増えたのも理由だとは思う。発言に力を持ちはじめたのだろう。

 

ただ、私にすぐ謝る人が多いのだ。不快な思いをさせてしまったら謝るのはとても大切ではあるが、それが過剰であることは礼儀正しさではないと私は思う。

 

基本的に、一度発言してしまえば100%の撤回は不可能だ。いくら謝罪しても発言自体が消えるわけではない。

 

そういったことを考え、自分の体験を分析した結果、コミュニケーションは相手との関係と距離感を考えて行う必要があると私は考えた。

 

特に、ネット上では顔が見えない分、内容、言葉遣い、そういったもの全て関係と距離感を考えて行った方が無難だろうと思う。顔が見えないということは、その人のキャラクターもわからないことが多い。相手に自分がどんな人間に見えるか、よく考えた方が良いと思う。

 

とここまで書いて思ったが、なんだかさらに小難しく怖そうになってます?えぇ!?!?

しかも、あんまりわからない!?!?

 

そう、言葉にするのは難しい。

意思の疎通は難しいのだ。ほんの些細な言葉で全てを台無しにしてしまうこともある。最近巷を賑わせる「がっかり」発言はその典型である。

 

 

最後に、本来全然怖い人でもなんでもないことを証明するべく、この言葉で締めさせていただきたいと思います。

 

 

 

 

ウンコ

 

 

《おしまい》