デパートの催事場は、沢山の女性客でごった返していた。黒に赤に華やかなラメの煌き、それらは女性達の熱意を代弁するかのように、ガラスケースの中でギラギラと主張している。
「明日バレンタイン泥(でい)なの忘れてた…」
今日は2月13日、明日はバレンタイン泥だった。
富山しずかは焦っていた。明日がバレンタイン泥なのをすっかり忘れていたのだ。
「どうしよう、今から準備して間に合うかな…」
催事場の中を歩き回り、あれでもないこれでもないと、お目当てのものを探していた。
しばらく探していると、一つの商品が目に飛び込んできた。それはガラスケースの中で一際光り輝いている。
「すいません、これ見せて頂けますか?」
「かしこまりました」
女性スタッフがケースの中からそれを取り出し、富山にそっと手渡した。
「わーー!素敵ですねー!」
「今年の新作でございます」
それは、エナメル調の素材で出来ており、光沢が美しい逸品だった。赤色のボディーに金色のアクセントカラーが美しい。
「試着ってできますか?」
「はい、可能でございます」
富山はそれをそっと顔に装着した。
ピッタリであった。
富山はカウンターに備え付けてある鏡を見てみた。
そこには、レスラーマスクを付けた自分の姿が映っていた。
「サイズもピッタリだし、これにしよう!」
富山はレスラーマスクを購入した。
バレンタイン泥は女達の戦いだ。
好きな男性を巡り、熾烈な泥試合を繰り広げることからバレンタイン泥と名付けられた。
昔は「バレンタインデー」と言って、意中の相手にチョコレートを渡すだけのイベントであったが、時代とともに徐々に激しさが増し、今のスタイルが定着したのだ。
「明日はたぶん…京子と直子と戦うことになるわ…」
富山は家へ帰り、イメージトレーニングを始めた。それは深夜にまで及んだ。
翌日、富山は罵声で目が覚めた。
早くも至る所で試合が始まっているようだ。
「さて、行きますか!」
富山はレスラーマスクを装着し、太ももを「パァンっ!」と1回叩いた。
戦いは職場で始まった。
「今日はあんたら2人とも倒して、細山さんに告白するんだから!覚悟しなっ!」
戦いは直子の一言で幕を開けた。
「かかってこいやぁ!!!」
京子と富山は同時にそう叫んだ。
そこからは取っ組み合いの泥試合だ。
富山は大きい。
身長は170cm、体重は100kgを超えている。
富山は二人にタックルした。
すると2人ともすごい勢いで飛んでいった。
細山は3人の上司でなかなかのイケメン、仕事も出来て人望もあつい。細山は狼狽えながら3人を只々見守っていた。
「えぇぇええい!!!」
3人が雄叫びをあげながら取っ組みあっている。しばらく続いた後、決着がついた。
富山は勝ったのだ。
富山はマスクを取った。ボサボサになった髪は逆立ち、地獄からの使者と言った言葉がぴったりの様相だった。
懐からチョコレートを取り出し、細山に渡した。
「細山先輩…!受け取ってください!!」
「…ありがとう」
富山は嬉しかった。チョコレートを受け取ってもらえたことに舞い上がった。3月14日が心底楽しみだった。
そのはずだった。
「え!?!?細山先輩が出社拒否!?!?」
翌日職場は騒然としていた。
細山が出社拒否になってしまったのだ。
2月15日は日本中の至る所で、同様のケースが相次いでいる。そんなわけで、ホワイトデーのお返しを貰うのはなかなか難しくなりつつあった。
「先輩…どうして…」
あれから数年経ったが、富山は今でも細山の復帰を待ち望んでいる。
《おしまい》